ふるさとのお社(12) よんでみ亭 124回
~天満宮②~
道のべの朽木のやなぎ春くれば
あはれ昔としのばれぞする (菅原道真)
明けましておめでとうございます。
子供の頃、まさか21世紀も二桁の年代まで生きているとは思いもしませんでした。このコラムを読んで頂いている同窓生諸君!まことにめでたい!御同慶の至りであります。
てな感じで相も変わらずの呟きですが今年もお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。
さて日本の神様は畏れ多くも分類すれば3種類いらっしゃるそうであります。
1、山川草木・自然現象などあらゆるものに宿る精霊神
2、古事記や日本書紀に書かれている天神地祇(天津神あまつかみ・国津神くにつかみ)
3、有名人・有力者や英雄が死して祀られる神
このうち2の“天神地祇”というのは天皇家の祖神であるところの天照大神を含む高天原神族=天津神と、国引きで知られる大国主に代表される出雲神族=ヤマト古来の神々=国津神を一緒くたにした名称でありますが、ご存知のように高天原神族は宮崎日向の高千穂に天降ってより東征して大国主=スサノオ=大物主=大己貴(おおなむち)の率いる出雲族を降し、島根に大神殿を建設して封じ込めることと引き換えにヤマトを頂戴したことになっております(天孫降臨と皇孫{すめみま}への国譲り)。
この件に関しては色々御異見があろうかと思いますが、なにせ超むかしの事で出典が当局による編纂の『記紀』しかありませんのでその点お含み置きいただくとして、取り様によっては如何様にも解釈できる一大スペクタクルでありますから超面白くもありますし日本人の根っこみたいなものが感じられますので追々御紹介していくつもりです。よって是非とも皆さんの御意見もお聞かせ下さいね。
で、前回の続きの天満宮のおはなしであります。神様のタイプ別でいうと3ですね。
道真公が亡くなると落雷や洪水などの天変地異が続き誰と言うこともなく菅公の祟りだと噂するうち909年、菅公を陥れた張本人の藤原時平が39歳の若さで亡くなったのは前回書きましたね。時平は今回のちほど御紹介する聖人に魅入られた藤原明子の父藤原良房の孫に当たります(つまり明子は時平の伯母)。
良房は御紹介したように臣下の身分で初めて摂政に任ぜられる一方、応天門事件を契機に古代からの名族大伴氏と紀氏を中央から追放しております。また良房の養子で時平の父基経は第57代陽成天皇の摂政を務めますが、この少年天皇が暴戻であるとして廃位せしめ新たに新天皇として即位させたのがのちに道真を重用する59代宇多天皇でありました。この基経は宇多天皇により史上初の関白に任ぜられておりますが、任命時の“言いがかり”阿衡(あこう)問題で基経の権力が天皇のそれを凌駕することが明らかになったことは多くの人々の目に痛ましくも天皇の神性の凋落と映ったことでしょう。同時に藤原一門の専横を憎む人々にとって、配流先で非業の死を遂げた菅原道真公の怨霊が雷の神=火雷天神へと化したのは人情としてもっともな話でありますね。
942年右京に住む多治比文子(たじひのあやこ)という巫女に菅公が我を祀るようにと神託が降り彼女は自宅に祠を作ました。5年後、古くより火雷天神(稲妻・稲光などの字から分かるように農業神であり水神)を地主神と崇め奉る北野の地に社殿を作ってお移ししたのがただ今の北野天満宮であります。
尚、藤原北家の嫡流はこの長男時平系から弟の四男忠平(道真公の左遷にはタッチしていなかったと伝えられる)系に移りこちらが江戸時代まで摂関制を担って参ります。
では天満宮はこのくらいにして、再び『今昔物語』巻20「染殿后為天宮被嬈乱語第七」(そめどののきさきてんぐのためにねうらんさるることだいしち)の続きを。
「さて山に帰った聖人であったがどうにも后に対する愛欲が抑えらない。なんとか后に近づきたいと願い日頃拠りどころとしている仏に祈拝するが、この世ではとても叶うまいと思うや元の願いの如く鬼にならんと定めて絶食し十余日を経て飢え死にする。その後たちまち鬼と化す。身の丈八尺(2.4m)裸形にて頭髪は無く肌は黒く漆を塗った如く眼ぎらぎらと見開き大きな口を広げ剣のような歯は上下にくいちがって牙の如く生えていた。
この鬼、俄かに后のいる几帳のそばに立った。これを見た人々はみな動転し心惑い卒倒するかほうほうの体で逃げ出す。女房どもは気絶し或いは着物を被って突っ伏したが、普通の人は参入できないのでこれを見たものはいなかった。
しかる間この鬼の魂は后をたぶらかし、正気を失くされた后は身づくろいをなさって微笑まれ扇でお顔を隠されて御張(みちょう)のなかへ入られ、鬼と二人してお臥せりになった。女房が恐るおそる聞き耳を立てていると、ただただ恋しくて逢えないのを切なく思っていたと鬼が申すや、后も嬉しそうに笑い声をお立てになったので女房ども恐れて皆逃げ去った。
しばらくたち日暮れになって鬼は御張から出ていずこかへ消え去る。后を心配していた女房達が急ぎ参ったが后は普段と変わらず最前の事は一向に覚えていらっしゃらないようだった。
このことを天皇に奏上すると、天皇はこれを奇怪で怖ろしいとお思いなるよりも后はこれからどうなるのであろうと大そうお嘆きになったのだが、その後も鬼は日毎后の元に同じように現れ、后また恐れおののくことも無くただただ鬼を愛おしいとお思いになるのであった。宮中のもの皆これを見て哀れに悲しくひたすら嘆くばかりである。
そうこうしている間この鬼が人に憑いてこう云った。我必ず鴨継への怨みを晴らすべしと。鴨継これを聞き怖じけ震え幾許もなく死んでしまう。また鴨継の息子が3.4人いたがみな狂死する。
天皇や父の大臣このことに大変怖じけ恐れられ、諸所の霊験あらたかな高僧等にこの鬼の降伏(ごうふく)を懇ろに祈らせたまわれた。
様々の御祈祷の験(しるし)あってか鬼、三月ほど姿を見せなくなったので后の御様子もお直りと見えて普段の如くにお成りなので、天皇これをお聞きになり今一度后のお顔を見ようとおっしゃって后の宮へ行幸なさったがやはり尋常ならざるによって百官みな従った。
天皇は宮に入られ后とお会いになるや涙ながらにお苦しい胸の内をお話になると后も深く感激なさったようでその御様子は前と少しもお変わりなかった。
と、その時、部屋の隅から例の鬼俄かに躍り出てするすると御張の中に入り込んだ。
天皇、奇異(あさまし)と御覧ずるうち、后例の御様子になられ御張の中に急ぎ入られる。
しばらくの間があって鬼が南面(人々の正面)に躍り出た。
大臣公卿初め百官みな眼前にまざまざとこの鬼を見て怖れ惑い奇異(あさまし)と思うほどに后続いて現れ出て、
『諸ノ人ノ見ル前ニ、鬼ト臥サセ給(たまひ)テ、艶(えもいは)ズ見苦キ事ヲゾ、憚(はばか)ル所モ無ク為(せさ)セ給テ、』
やがて鬼起き上がり次いで后も起きて御張の中にお入りになった。
天皇は為される術(すべ)とて無くただただ嘆かれるばかりにてお帰りになったという。」
これより当今昔物語の作者のコメントになります。
「であるので、高貴な女性はこのことを聞いて、絶対にこのような法師に近づいてはならぬ。この話は極めて都合悪く憚りあることではあるが、後世の人に知らせ法師に近づくこと固く戒めるためこのように語り伝えたのである。」
・・・まあ、取って付けた様な感想でありますね。確かに“極めて都合悪く憚りあること(極テ便無ク憚リ有リ事)”には間違いないけど。
前回御紹介ましたがここに書いてある天皇は第55代文徳(もんとく)天皇であります。母は54代仁明(にんみょう)天皇女御で良房の妹順子であり、文中の后とは文徳天皇の女御、良房の娘明子であり56代清和天皇の母でもあります。
恐るべし!藤原北家。
それにしても無力であらせられる天皇でありました。天皇の神性を毀損したことについて、愛欲地獄に堕ちた法師より100万倍も罪深いお家柄だと言わねばなりませんでしょう。
まァ、どなたも割と堕ちやすい地獄の話ではありました。
ちなみに明子は829年生まれで72歳まで存命。この話の頃の彼女は、当麻鴨継の享年から45~46歳ころと推定されます。ウフ。
ということでまた次回をお楽しみに。
亭主敬白