よんでみ亭―117回
ふるさとのお社(5)
~水天宮④幕末編~
一日(ひとひ)だに妹に恋ふれば千歳川つひの逢瀬を待つぞ久しき
(真木和泉娘お棹へ平野国臣が送った歌)
あっという間にゴールデンウイークも終わりましたが、みなさんその後お変わりありませんでしょうか?
黄金週間中、当方は申し込んでいたETCも間に合わずテレビで中継する高速道路の大混雑を半ば喜びながらビールを飲んでおりました。やあ、すごかったですね。地方の高速ですと土日祝日にかかればどこまで行っても上限1000円ですから大渋滞も無理からんな、でありました。青森まで行っても千円だもんね。
けれど景気浮揚とはいえ定額給付金をはじめこんなに政府が大盤振る舞いしてよいものでしょうかね?なんだか選挙対策用の予算垂れ流しのようだし、急ごしらえの予算は当然官僚主導だからお役人用にもいいとこあるよう作ってあるでしょうね。
・・・なんか日本人って政府を信じてないところがあるけど、マァしゃーないか、と思って受け容れているとこあるよね。あれ、なんでしょうね?日本国民は基本的に性善説を信じて政治家も役人もこの国を悪いようにはしないと、みんなして羊みたいな期待を持っているんでしょうかね。ただ、こんだけバラまいたら再来年当たり消費税10%は間違いなく行くでしょう。
なにはともあれいくら不景気とはいえ鼻先のニンジンに踊らされているという感じがしているのは私だけじゃないと存じます。ま、詳しくは毎月トップのユージ君のコラムでガツンと糾弾してもらいましょう。
さて水天宮のお話がヤケに長引いておりますが、今回の出だしは薩摩藩のことであります。
薩摩藩島津家の九州での歴史は古く鎌倉時代に御家人島津家が頼朝の命により日向の地頭として任官した頃にさかのぼります。以後曲折もありましたが幕末まで薩摩大隈77万石の大名として存続しました。ご存知のように明治維新は薩摩藩(長州藩も)を中心に回天したのですがそのためには当然資金が必要であります。江戸時代も中期を過ぎるとどの藩も慢性の赤字に苦しんでいましたその中で薩摩藩はどうやって幕府を転覆へ追い詰めるほどの資力を得たのか?
1830年当時、それまでの借金と8代藩主重豪(しげひで)の蘭癖と豪奢な生活費も加わって薩摩藩の借財500万両!現在に直すと3000億円!この借金をどうしたか?
年2万両(1200万円)返済の無利子(当時の利息は普通年1割でしたが)250年賦!要するに踏み倒しでありました。これにより倒産する大名貸の商人が続出。まあ熊本藩54万石細川の殿様も似たようなもので悪評は三都に鳴り響いておりましたが。
こうして借金はチャラにしましたが倒幕の費用はどう捻出したか?
隷属させた南西諸島々民からの収奪であります。一つはサトウキビからの砂糖生産と専売。もう一つは琉球経由の密貿易であります。(薩摩藩の圧政による悲話が方々の島に伝承されております。ご興味のある方はお調べ下さい)こうして14年後の天保15年(1844年)には藩庫には150万両!が積み立てられておりました。薩摩藩の苛政がいかに徹底したものであったかを物語っていますね。
さてさて名君の誉れ高かった11代藩主斉彬の死後薩摩藩は藩主忠義の実父久光が実権を握っておりました。久光の信任が厚かったのがNHK大河ドラマ『篤姫』でお馴染みの家老小松帯刀(たてわき)と大久保利通であります。
前回は平野の『尊攘英断禄』を携えての3度目の薩摩潜入を書きましたが、公武合体論者である久光は尊攘の志士だの憂国過激な浪人なぞ大嫌いでありましたので、久光の本心を知る大久保は久光の手許金から10両を与え平野を労いますが結局この建白書を久光に取り次ぎませんでした。ただこの時平野は有馬新七ら藩内尊攘派(精忠組)左派と会談。このことが後の寺田屋事件に繋がっていきます。
1862年(文久2年)3月16日中央進出をもくろむ久光は意気揚々と京を目指し鹿児島出立。朝廷から幕政改革の勅命を受け江戸に乗り込もうというのであります。
ところが自藩や各地の急進派志士は久光のこの行動を倒幕の動きと取りました。幕法で許されていなかった大兵を率いての上洛に加え、西郷を行軍の露払いをさせる薩摩に対し尊攘の志士たちは狂喜、続々と上京するなか浪士たちの参謀格清河八郎は田中河内介らとともに大坂薩摩藩邸長屋に入ります。(当時不穏な浪士等を野放しにするより自らの監視下に置き自藩の尖兵にするという薩摩藩の方針でありました)また長州勢では久坂玄瑞、寺島忠三郎他19人が土佐勢の吉村虎太郎・宮地宜蔵等とともに大坂蔵屋敷に待機し、これに加え長州国許より百余人が浦靱負(ゆきえ)に引き連れられ上京の予定でありました。
そしていよいよ4月1日真木和泉が脱藩して久留米を発ちます。水田に蟄居を命ぜられて11年目でありました。
一方、平野は先発の西郷を馬関(下関)に尋ね京阪における挙兵計画を打ち明け薩摩藩の武力による応援を依頼、西郷は内諾しました。その計画とは「京都所司代酒井忠義と関白九条尚忠を討ち取り、相国寺に幽閉されている青蓮院宮をお救いし征夷大将軍推戴すなわち討幕の詔勅を頂く」というものでした。
久光に馬関で待機して本隊に合流するように命ぜられていた西郷ですが、無断で急遽大阪に上り平野等の挙兵に備えようとしました。すなわち平野等に呼応し遮二無二久光を動かして薩摩を中核にした倒幕の軍を興し一挙に江戸に攻め上ろうと。ところが西郷は目論見違いをしていたのです。
当然、違命した西郷に久光は激怒。西郷の真意を糺せという久光の命を受けた大久保は伏見に西郷を尋ねます。このとき大久保が西郷の思いに反しその計画を時期尚早として今は自重すべきだと説得しました。
結局西郷はその説得を受け入れ藩の方針に従うことになります。ここが運命の分かれ目でありました。(幕末は運命の分かれ目のオンパレードですけど)
4月8日西郷隆盛久光の命より謹慎。11日帰国を命ぜられる(のち沖永良部島へ配流)
同14日有馬新七・田中謙助・柴山愛次郎・橋口伝蔵ら薩藩急進派久光の態度に不満を募らせ義挙の決行を18日と定む。
17日久光側近より柴山らに主君の慰撫を伝え、決行日を延期させるが欺瞞であったことが判明。決行日を21日に決定。
19日大久保、有馬・田中(河内介)と会い自重を求めるが有馬ら拒否。
21日真木和泉ら着坂。柴山・橋口と会談。
22日真木和泉ら京都薩摩藩邸長屋に入り、田中(河内介)らと連絡を取り合い義挙決行を23日とする。
23日当日。同志の面々薩摩藩邸を出て船で伏見の船宿寺田屋へ向かう。一方久光この日計画の決行するのをはじめて聞き驚愕。大山綱良ら9人を寺田屋に遣わし主だったものを藩邸に連行するよう命ずる。「もし素直に命を奉じない際は、いかがいたしましょうか」久光は思案ののち言い放った。「いたし方ない。臨機の処置をとれ」
午後10時頃9人は寺田屋へ到着。藩邸へ出向くよう有馬らを説得しますがどうしても聞き容れません。討手側の道島「どうしても聞かんといわれるのか」田中謙助が答える「ああ、聞かん。こうなった以上なんと言われても聞かんぞ!」とたんに道島は、上意!と叫ぶや抜き打ちに田中に斬りつけました。壮絶な同士討ちが始まります。
有馬は刀を抜いて道島に斬りかかっていきました。有馬は神影流の手だれ、道島は示現流の名手であります。双方一歩も譲らず5,6合斬り結ぶうち、有馬の刀が鍔元からポキリと折れました。刀を投げ捨てた有馬は猛然と道島の懐に飛び込み込み彼を壁に押し付けます。同志側の橋口吉之丞が有馬を助けようとしますが、二人がもみ合ってなかなか近づけない。有馬は怒鳴った。「おいごと刺せ!おいごと刺せ!」橋口この時二十歳。逆上しきっております。「チェストー!」渾身の力を込めて刀を突き刺します。両人を串刺しにして壁に縫い付けました。 有馬新七、行年38歳。西郷の2歳上でありました。
このとき2階には真木和泉ほか諸国の志士等が多数おりましたが、大山綱良が刀を投げ捨て必死の説得をします。薩摩人同士の惨劇を目の当たりにした彼等も再起を期し涙を呑んで投降しました。
この寺田屋事件で同志側の死者は負傷後の切腹を含め9人。討手側死者1人、重傷者3人、軽傷2人。憐れだったのは、双方とも精忠組のメンバーであったことでした。まさに「豆を煮るに豆ガラを以ってす」でありました。さらに投降した志士等は、真木和泉が久留米藩に送られたようにそれぞれ出身の藩に渡されましたが引き取り手のない田中河内介親子、千葉郁太郎(田中の甥)、島原藩士中村主計、秋月藩士海賀宮門の5人は薩摩藩預かりとなり薩摩に護送中播州沖の藩船の中で斬殺され屍骸は海中へ投げ捨てられました。薩摩藩目付の命令で酷薄にも寺田屋の同志に斬らせたのですが、西郷がのちにこれを聞き「もう薩摩は勤王の二字を口にすることは出来ん。とんとこれまでの芝居であった」と言ったほど幕末維新史上の一大汚点でありました。
また後日談として明治になってから、ある席上明治天皇が「中山大納言家に田中河内介という家臣がいた(明治天皇御幼少の頃田中は大納言家諸大夫として少しの間天皇の教育掛を勤めた)が、その後どうして居るか」と聞かれ、居合わせた大久保参議らは返答のしようもありませんでしたが、かつて事件のとき寺田屋2階に同席していた元竹田岡藩士小河一敏という者が進み出て薩摩船上で処刑されたと申し上げたのに対し、大久保は一言も発せず顔を伏せたままであったといいます。陰険な事にこれ以降小河はまったく昇進できなかったといわれております。
という次第で義挙は決行前に挫折してしまいました。
尚、寺田屋事件に平野国臣も清河八郎も連座しておりません。その顛末はまた次回で。
亭主敬白