ふるさとのお社(1)
~高良大社~
新年明けましておめでとうございます。
昨年は大変おつかれさまでした。
あまりに激動の一年でありました。
さて今回より新シリーズであります。われらが故郷久留米近辺の神社をご紹介していこうというものです。
今回久しぶりに高良山に行ってきましたが、いやはやなつかしかったですね~。ですのでたぶん皆さんにも喜んでいただける、と勝手に思い込んででっち上げた安易な企画ではありますが、ことは日本の神様に関する事ですから誠心誠意書かせていただく所存であります。ただし、気力・能力の関係で中途で頓挫したらゴメンね。
では第1回目は高良大社であります。
御井町バス停でバスを降りるとすぐ目の前に大鳥居がありますね。1655年に2代藩主有馬忠頼公の寄進によるもので国の重要文化財に指定されております。大鳥居をくぐって池にかかった石橋を渡りあとの話にも出てくる高樹神社を左に見て歩くといよいよ第2の鳥居です。
ここからはご存知の山道の参道。もう着くやろもう着くやろと思いつつ登って行くこと30分。息も切れ切れのその時忽然と視界に広がる駐車場。おもむろに横切って行くとこれも泣かせる第3の鳥居の先は見上げるような階段でありました。
久しぶりに登った130段の階段はややメタ中年には応えました。やっぱりね。
で、社殿であります。
社殿は、これも有馬の殿様が寄進した本殿・弊殿・拝殿を合わせ九州最大の神社建築とか。こちらも国の重要文化財であります。
927年に編纂された延喜式神名帳(じんみょうちょう)には高良玉垂命神社と記されとくに霊験あらたかな名神大社に認定されております。また筑後の(国の)一の宮ということで筑後地方の一番由緒のあるお社ということになっております。(一の宮という制度自体は文献資料的には不詳だそうですが)
祭神は正殿に高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)。
左殿に八幡大神(はちまんおおかみ)。右殿は住吉大神(すみよしおおかみ)の三柱であります。
八幡神は豊後(大分県)の宇佐神宮から勧請したのでしょうか。創建は高良大社のほうが100年ほど早いようですが(1600年前と伝わっております)。
宇佐神宮といえば、全国八万社の神社のうち最もその数が多いといわれる二万五千社に及ぶ八幡社の総本宮であります。鬱蒼とした森の中、古色蒼然たる七万坪の境内は森閑としてしめやかな雰囲気がいかにも神域という感じがしてオススメの神社です。まだ行かれてないならお近くですし是非お参りください。
八幡大神とは仲哀天皇と神功皇后の御子である応神天皇のことで、国家鎮護の神でありまたのちに石清水八幡宮や鶴岡八幡宮に勧請され武士に尊崇された武神でもあります。
また宇佐八幡といえば神宣であります。例の道鏡事件ですね。天皇家以外の人臣による天皇位の簒奪を八幡神の託宣が許さなかったというあれです。天皇位の簒奪未遂といえば道鏡も含め歴史上3例ありました。足利義満が即位寸前で死んで失敗したのと、もうひとりは織田信長でありました。この話は非常に面白いけどまた別の機会にしましょうか。
一方、住吉神は海の神であります。正式の御名を底筒男命・中筒男命・表筒男命(そこつつのおのみこと・なか~・うわ~)といわれる筒男3神であります。イザナギが黄泉の国から戻って禊をした時にわたつみ(海神=綿津見)の神と共に生まれた神様であります。この住吉神が活躍したのが神功皇后の三韓征伐(いまどきは言わないのかしら?わたしら歴史でこう習ったけど)の時でありました。皇后のボディガードとして、また水先案内人として三韓征伐に貢献したのでした。
大阪に住吉大社がありますが、私らには福岡市博多区にある住吉神社のほうが馴染みがありますね。なんと全国に二千百余社ある住吉社のうちもっとも多いのが福岡県で百九十二社あるそうです。なぜ福岡にはこんなに住吉社が多いのか?じつは前述の海の神わたつみ神は安曇系の神でありますが、安曇一族の発祥の地は志賀島(志賀海神社)であります。ということは朝鮮半島から渡来してきたと思われ、大和の侵攻以前北九州にその勢力は根を張っていた。が、大和は巧妙にその神々を取り込むことで九州を平定していった。つまり安曇社が住吉社に取って代わられていったという憶測が成り立つわけです。
さて主祭神の玉垂命のことであります。
古来玉垂命とは一体何ものなのか?という論争が続いてきたそうです。わたくし全然存じませんでしたけど・・・。
一応伝説的な人物である武内宿禰(たけうちのすくね)であるということになってはいます。またしても神宮皇后の三韓征伐が絡んでくるのですが、神宮皇后に同行した武内宿禰が海を渡る折に玉を海に投げ入れ潮を新羅に向けさせて船団をなんなく運ばせたのを見た新羅の王はその神威に畏怖し戦わずして降伏した、と記紀にあることから玉垂命と名付けられたという伝承であります。
ですが玉垂宮が400年ころの創建であるにもかかわらず玉垂命という御名は日本書紀(720年成立)や古事紀(712年)には一切現れず、818年の『日本記略』という文献に初めて見えることから、そもそもがどうやら玉垂命は大和とは別系統の神ではなかったかとの推測のほうが説得力ありますね。
すなわち527年に磐井の乱が起こるほど九州のこの筑紫の地には大和に対抗しうるほどの大きな勢力が連綿とあった。とするならばそれ以前地政学的に有利なこの高良山に君臨する有力な氏族がいたと考えるのが自然でありましょう。 が、結局は大和に取り込められやがて北九州の神々は神宮皇后の三韓征伐の成功に貢献させられそのことが記紀に記されて後世に伝えられていくわけであります。
ああまたしても大和のやり方でありました。
でありますが、こんな伝承もあるんですね。
すなわち、かつて高良山には高木の神が鎮座されていたのだがある時玉垂の神が山頂に一夜の宿を借りに来た。高木の神は気持ちよく貸したが玉垂の神はその夜のうちに結界を張って鎮座してしまった、とまさに軒を貸して母屋を取られるという話。
現在高良山の麓にある高樹神社の祭神が高木神=高牟礼神であります。
つまりは神代の昔から勢力交代は世の常、という一席でありました。
ではまた次回。
亭主敬白