ふるさとのお社(11)
ふるさとのお社(11)
~天満宮①~
夕されば野にも山にも立つけぶり
嘆きよりこそ燃えまさりけれ (菅原道真)
いやはや月日の経つのは早いものでもう12月。2009年もはや暮れようとしておりますが、みなさんその後お変わりありませんでしょうか?
この一年を振り返り如何な年であったか総括する頃となりました。長いようで短かった一年でしたがみなさんにとってよい年だったでしょうか?
人生五十年と詠われて感無量の50歳のときよりすでに5年過ぎております。
多めに見ても残された年月はこの世に生を受け過ごしてきた春秋よりズンと少なくなっております。それでもあと30年か40年か・・・はたまた1年か明後日か(誰にも分かりませんが)、分かりませんけれどもいつ向こうに旅立ってもおかしくない年頃になりました。全くいつの間に、なんでしょうかね。
五木寛之風に申せば、我々は只今林住期(りんじゅうき)なのだそうな。
すなわち、24歳までの学生(がくしょう)期、それより49歳までの家住期、しかして75歳までの林住期、とその後の死ぬまでの遊行期のうち、わたしたちは林間に分け入って瞑想し“自分の人生を振り返り本当にやりたかったのは何だったのかを問いかける”時期げなです。で、遅かれ早かれ生計稼業から足を洗い、(しがらみを避けるため)独りになって家住期の蓄積をバネにセカンドステージへ羽ばたくべき時げなです、と。
子供らが巣立ち仕事の区切りも見えてきた昨今、理想的にはそうあるべき時ではありますが、ところが我が人生に対するこの焦燥と、世間に対するこの倦怠は一体何なのでありましょうか?
相変わらず煩悩の海に漂いひたすら喘いでいるだけなのか、ではあるけれど今しばらく懊悩の深みに沈みつつ生臭い息の切れるのを待って一気に浮上する機会を待つのか、或いはこのまま煩悩に呑まれて老残の淵に沈没していくのか・・・いまだ先途を見出せず惑いっぱなしの筆者なのでありますので、このままではまだまだ林住期は訪れそうにありませんよなあ。
煩悩といえば『今昔物語集』巻20に興味深い話が収められております。大層ショッキングな話なのでみなさん御存知かとも思いますがご紹介しましょう。ちと長いけど。
尚、ヒロインの本名は藤原明子(あきらけいこ)といい文徳天皇の女御であり優れて美貌でしたが父の藤原良房(皇族以外で初めて摂政となりのちの藤原摂関政治のもとを作った)の専横を嫌う天皇は更衣の紀静子を寵愛。静子とのあいだに出来た惟喬親王に帝位を譲ろうとお考えでしたが良房の圧力もあって明子との間にもうけた惟仁親王(のちの清和天皇)に譲位されますが、その直後急死。良房が弑(しい)奉ったとの説もあります――そういう状況を前提にお読み下さい。
「今は昔、染殿(そめどの)の后といって太政大臣藤原良房の娘で清和天皇(在位858~876年)の御母上に当たる方がいらっしゃった。飛びぬけてお美しい方であったが常に物の怪に悩まれておったので世上評判の霊験ある僧どもを召し祈祷させたが一向に効き目がなかった。
あるとき葛木山(かづらき)の頂にある金剛山に住む聖人(しょうにん)が修法(ずほう)によって鉢を飛ばし食を得、瓶を飛ばし水を汲むといった験力あらたかという評判を聞こし召した天皇はこの聖人を都へお呼びになり聖人はその度御辞退申し上げていたが度重なる勅命にそむきがたくついに参上することになった。
さて御前で加持祈祷すると后の侍女の一人に何かがのり移り狂い泣きわめく。聖人まますます祈祷すれば女は縛られたようになりそのうち女の懐から老孤が飛び出しクルっと転がると倒れて逃げることもできずにいる。聖人これを捕えワルサをしないよう呪した。大臣これを見て喜んだのは言うまでもない。
后が一両日中にすっかり快復したのを大臣は大いに喜んで聖人を召し、しばしこちらに留まってくりゃれと慰留する。これがいけなかった・・・。
仰せに従いしばらく御殿に滞在する聖人であったが、時あたかも夏のことにて后は単衣(ひとえ)を召していたところ風がさっと吹いて几帳の垂れ絹がヒラリと翻った折ちらりと后を垣間見た瞬間、
(ここのところ原文)聖人タチマチ心迷ヒ肝砕テ深ク后ニ愛欲ノ心発(おこ)シツ。
けれどもどうしようもないのでただただ悩んでいたが、胸の中は火を焼く如く面影がちらついて片時も忘れることも出来ず、ついに分別を失って人目のないのを確かめ御張(みちょう)の内に入って、
后ノ臥セ給ヘル御腰ニ抱キ付キヌ。后驚キ迷テ、汗水ニ成テ恐(お)ヂ給フト云ヘドモ、后ノ力ニ辞(いな)ビ得難(えがた)シ。然(しか)レバ、聖人力ヲ尽シテ掕(りょう=凌)ジ奉ルニ、
女房達これを見て大騒ぎとなった。この時たまたま勅命で后の病の治療に訪れていた当麻鴨継という侍医が騒ぎを聞きつけ御張から出てきた聖人を捕え天皇に伝える。天皇大いに怒り給いて聖人を牢獄に繋いだ。
牢獄に入れられた聖人は一言も物言わず天を仰ぎ泣く泣く誓うに“すぐに死んで鬼となり、后がこの世にいる間に思い通りに后とねんごろになろうぞ”
驚いた大臣は天皇に奏上すると聖人を許し山に返しなされた。・・・つづく」
佳境に入って参りましたが長くなりますのでこの話の続きは次回正月号でお届けします。さてさて本題です。
今回は天満宮であります。天満宮(天神)は全国に1万余社あり、稲荷(32,000社)、八幡(25,000社)、伊勢(18,000社)に次いで4番目の多さを誇っております。
通町から寺町を北に抜けると櫛原天満宮であります。もちろん祭神は菅公、菅原道真であります。創建は文治5年(1189年)と伝えられております。室町時代の騒乱時に炎上し440年ほど記録が途切れますが元禄5年再建。天明期の久留米藩古地図にはこのあたり一帯に大きな社地を占めております。
下は旧三井郡北野町にある北野天満宮の一の鳥居とそのすぐ側にある同窓生田中政治君の経営する田中まさはるクリニック。
田中君には高血圧でお世話になっております。
立派な神社でありますね。慶長12年(1607年)の銘のある二の鳥居をくぐり赤い欄干の太鼓橋を渡ると参道の先に渡り廊下を左右に従えた楼門があります。社伝によれば天喜2年(1054年)の創建。京都北野天満宮の神領(荘園)の鎮守社として分霊されたもので、祭神は菅公と武内宿禰・住吉大神とありますが高良大社との関係であとの2神は後年合祀されたものと思われます。
ご存知のように道真公は、藤原氏の専横を快く思われない宇多天皇の異例の抜擢を請けて重用され次の醍醐天皇の御世に右大臣にまで出世しますが、藤原時平の讒言により失脚し901年大宰府に流され2年後に彼の地で亡くなりました。一説によれば、菅公の遺骸を載せた牛車がそこまで来てどうやっても牛が動かなくなった場所に埋葬されたということですが、そこがただ今の太宰府天満宮であり、ために牛は管公の使いと認知されて全国の天満宮の境内には臥牛の像が設けられ(上の櫛原天満宮の写真にもありますね)撫でれば御利益があると庶民の崇敬を集めております。
ところで『北野天神縁起』(1200年頃成立か)によれば、大宰府で道真が憤死して間もなく道真の怨霊が比叡山座主の尊意の元を訪れて懇願します。
「濁世に生まれ讒言のため無実の罪を着せられ都を遠く追われました。悔しさの余り死して雷(いかずち)となりました。これより都に参り報復するつもりです。すでに梵釈冥官(梵天や釈迦や閻魔王)の許しも得ておりますがあなたの法力には敵いません。どうか平癒の勅命であっても内裏へは上らないで下さい。」
「天下はすべて王土です。勅命が3度に及ぶなら拒むことはできかねましょう。」
さっと顔色の変わった道真の怨霊に、尊意は喉が渇いていらっしゃいましょうと石榴(ざくろ)を勧めます。怨霊は石榴にかぶり付くと立ち上がりペッと妻戸に吐き出すや柘榴の実は炎に変わりパッと燃え上がり、見る間に扉が2,3尺も焼けてしまいます。が尊意は少しも慌てず印を結ぶとたちまち炎は消えてしまいました。
まもなく都は黒雲に包まれ昼間でも夜の如く闇の中を稲妻が飛び交い雷鳴は都中に轟きわたり、あちこちに落雷が起きます。人々は上下を問わず逃げ惑い頭を抱えあるいは床下へと逃げ込みました。
さて尊意への勅命はついに3度に及び、比叡山を下りた尊意は内裏へと向います。おりしも鴨川は氾濫し、溢れた川の水が息巻く風に都の家並みを洗うがごとく荒れ狂っておりましたが、尊意が内裏へ向かう道筋だけは水が両側に屏風のようにうず高まって堰止められ尊意一行を通したのでした。まるで割れた紅海を行くモーゼみたいですね。
内裏で祈祷する尊意の法力によりたちまち都にかかる暗雲は嘘のように晴れ都に静寂が戻ってきます。がしかし、尊意の法力もここまででありました。
この後内裏や洛中では怪異現象が続発します。そんななか、
908年、道真に恩を受けながら裏切った藤原菅根が雷に打たれて死亡。
909年、時平39歳で病死。
913年、時平と結託し道真を追い落とし右大臣となった源光、溝に転落溺死。
923年、醍醐天皇の皇子で時平の妹が産んだ皇太子保明親王21歳で急死。
925年、時平の娘が産んだ皇太孫であり次期皇太子の慶頼王5歳で病死。
そして930年6月26日、内裏清涼殿を落雷が直撃しました。この日の午後5時ごろ雨乞いの相談をしていた十数人の公達・侍士のうち、藤原清貫が胸を裂かれ平希世は顔を焼かれ、それぞれ即死。近衛の美奴某は髪を焼かれ後日死亡。紀某は腹を、安曇某は膝を焼かれ悶え苦しんだといいます。醍醐天皇が受けた恐怖と衝撃は大きくドッと床につかれ、尊意が連日に渡り加持祈祷をするも回復せず9月22日御譲位、29日御出家その日のうちに崩御されました。
没後年々歳々菅公は神通力、いな呪力を高めていったと言うべきか。
このあと菅公の怨霊が天神信仰や御霊信仰と結びついて学問の神として天満宮に祀られるようになった経緯はまた次回の天満宮②でご案内いたします。
それでは、今年も一年間お付き合い頂きありがとさんでした。佳いお年をお迎え下さい。