ふるさとのお社(10)
~水天宮⑦幕末編~
君が代の安けかりせばかねてより
身は花守となりてんものを (平野国臣)
みなさん!先日の大同窓会、たいそうお疲れさまでした。
あっという間に終わりましたね。私等48会は総勢52人で、いやはや久し振りの集合で楽しかったですね。今回はなんといっても第2部に入り第3会場の我等の間近で鮎川まこと&シーナ夫妻がトークしてくれたのが最高でした。やっぱ現役ロッカーはシブくてカッコよかった~。(しかし鮎川氏の訛りはきつかったですなァ)それと司会も上手でしたね。たしか石田(旧姓)さんといってドリームFMで活躍していた人でしょう。いい感じでゲストの話を聞き出しおおいに盛り上がりましたね。
で、おミヤゲはやはり校章刻印入りフォーク3本セット(ノリタケ製同じ化粧箱入り)でありました。昨年の我等がスプーンセットとお揃いだとまた一段といいんじゃないですか?――ということで、諸般の事情により若干の現物をプールしておりますのでもしご希望の方がいらっしゃいましたら事務局へお問い合わせ下さい。
さて随分まわり道を致しましたが、“それからの”平野国臣に話を戻しましょう。
そもそも“安政の大獄”前まではいかな純粋激烈な尊王の志士であろうと倒幕までは思い至らず、外敵に対し幕府は政治機能を強化するとともに精神的支柱として朝廷を尊崇奉り古来よりの神国日本の国民一丸となって国難に当たるというつまりは公武合体論が専らであったのですが、井伊大老の恐怖政治により次々に名のある有能な思想家・愛国者が虐殺されていくにつれ全国の尊攘派志士たちの幕府に対する怨嗟と失望の声が高まるなか万延元年井伊は桜田門外で水戸浪士らにより暗殺されたのでした。その1年後、先述したように平野は薩摩候に捧げる建白書という体裁で七千余言にも及ぶ『尊攘英断禄』を書き上げ真木和泉や清河八郎に激賞されております。この時点でこのような具体的かつ精密な“倒幕論”は空前絶後であり7年後の1868年に始まる鳥羽伏見の戦い以降の歴史はまさにこの建白書をなぞるが如く展開して行くのであります。それはそうとして。
平野がこの『尊攘英断禄』を書き上げ久留米に真木を尋ねたころ、真木の娘お棹と恋愛が始まったようです。先回にも書きましたように真木が蟄居中の水田(現在の筑後市水田)に平野がはじめて訪れた翌年(文久1年)のことのようですがこの時平野34歳、お棹21歳でありました。しかしこの恋愛も儚いものでした。翌文久2年3月、島津久光が藩兵1000人を引き連れ上京するに先立ち、平野は薩摩藩の精忠組左派と歩調を合せ九州の志士を結集して攘夷倒幕の挙を起こすために上坂します。別れにあたってお棹はこんな歌を平野に送っております。
梓弓春は来にけりますらをの
花のさかりと世はなりにけり
これに対して平野の返歌。
ますらをの花咲く世としなりぬれば
この春ばかり楽しきはなし
数ならぬ深山(みやま)桜も九重の
花のさかりに咲きはおくれじ
お棹の餞に、微笑ましいくらい意気揚々と応える平野でありました。
ではありましたが、回天の機はいまだ熟さず。島津久光の本意と大久保の説得による西郷の翻意により寺田屋の惨劇となるわけですが、事件の11日前に筑前福岡藩主黒田斉溥(平野は筑前藩の足軽出身。また斉溥の実家が島津家)説得に播磨に出かけそのまま捕まって(平野は危険人物と見なされ以前より手配中)福岡に護送されのち1年幽閉されます。このため当然真木などと一緒に寺田屋にいたはずの平野がいなかったわけです。
文久3年3月出獄。このころが京都では天誅が流行り甚だ勤王盛力の意気盛んだった頃であります。平野の同志が公家に手を廻し朝旨として筑前藩に働きかけた結果でありました。
6月、藩の京屋敷へ上れという藩命であります。出獄してより前回の高杉晋作編にも登場した野村望東尼が、平野とお棹を結婚させようと久留米に足を運ぶなどして骨を折りますが平野の急な上京のためとうとう話は成りませんでした。
以後平野は死ぬまでお棹と逢えずに終わったのであります。
その頃京は長州藩を中心とする尊皇攘夷派がもっとも威勢のいいときであります。薩摩や会津などの称える公武合体論は俗論として人気が無く、久坂玄瑞など長州藩が若い血気盛んな公家を焚きつけ朝廷の雰囲気も反幕府に大きく傾いておりました。この長州の藩論を指導していたのが真木和泉であります。真木は大和行幸・攘夷親征を構想します。天皇が大和に行幸されたのち伊勢神宮へ親拝されるというものでありますが、そこには謀事が隠されていました。大和から諸大名へ綸旨を下し義軍を募り東へ向かって進軍するというものであります。これはまさに平野のあの『英断禄』を下敷きにしておりました。
この裏のことは天皇も上流公家も知りません。ついに裁可され8月13日発表。27日御発駕ということになりました。
一方上京して学習院出仕を命じられていた平野は、前もって大和地方へ先鋒隊として出発した中山忠光卿を大将に押立てた天誅組が勝手に過激な事をしないようにと遅ればせながら監察役を命じられます。19日に天誅組に追いつきましたが時既に遅く五条の代官所を襲い幕府の役人5名を斬った後でありました。そこへ京より驚愕の知らせが届きます。薩会と結んだ中川宮(策士久爾宮朝彦親王)が天皇の詔勅をいただき長州勢を追放したというもの。いわゆる8月18日の政変であります。
大急ぎ京に帰った平野ですが、京ではすでに長州勢は三条実美以下七卿を奉じて国許へ引き上げており勤王攘夷派は壊滅状態でありました。そしてここにも早すぎた英雄の悲劇が待っておりました。時はついに平野に味方しなかったのでしょうか。
一旦長州へ戻り不本意でもいささか雌伏すべきであったのでありますが、平野は天誅組に呼応するため生野で挙兵します。がうまく行かず結局大将に据えた沢宣嘉卿に逃げられ失敗。捕えられて京の六角獄に繋がれます。明けて元治元年の7月19日いつぞや書きましたように長州藩による蛤御門の変(禁門の変)が起きます。この折の戦火により京は大火となります。火が獄舎に及び牢内の志士たちが脱走、長州勢と合流するのを恐れた町奉行は処刑を断行。生野の変、池田屋事件で捕えた志士30数名を未決のまま斬首しました。一説によれば新撰組が手を下し、牢の格子ごしに槍で突き殺したといいます。
ときに平野37歳。一年に及ぶ牢暮らしで肉落ち骨枯れ総髪の髪も髭も真っ白にただ眼光だけが炯炯としていたそうであります。無念・無念・無念。
絶唱。
憂国十年
東に走り西に馳す
成敗天に在り
魂魄地に帰す
見よや人あらしの庭のもみぢ葉は
いづれ一葉も散らずやはある
ということで水天宮⑦平野国臣編はお終いであります。お疲れさまでした。
ところで幕末を読んでますと、登場するみなさん歌をよく嗜んでおりますね。敷島の道というんですか。いやはや昔の人は偉かったですね。で、翻ってみて筆者の精進が足りませんのを最近つくづく反省するのであります。ここは55の手習いってのを始めましょうかね。川柳とか都々逸とか、三味線とかピアノとか。・・・相変らずノーテンキであります。
ではまた次回をお楽しみに。
亭主敬白