ふるさとのお社(7)
~幕末編番外松蔭神社㊤~
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂
(吉田松陰『留魂録』より)
ひと月振りのご無沙汰ですが、みなさんお元気ですか?
毎年ながら梅雨のこの時期はジトジトと気鬱になりがちですが、パキッと気分を換えて楽天で行きましょうゼ!・・ということで、わたくしこの度ひょっと思い立ち例の土日高速道千円乗り放題というのを利用して山口県は萩に行って参りました。で、急な話で申し訳ありませんが前回予告の平野二郎国臣編は次々回へ順延いたします。
久留米から高速中国道美祢インターまで2時間、それから一般道で1時間の道のりであります。人口54,000人の日本海沿いの町で本土とは言へ九州から見てもちょっと不便なところにありますね。
萩は江戸時代に長州藩政庁があったところであります。関が原の戦いで西軍の総帥に担がれた毛利輝元は敗戦により所領を中国8ヶ国120万石から防長2ヶ国37万石に削られました。関が原では一兵も動かさないうちに義理婿小早川秀秋の裏切りにより敗軍の総大将になったわけですが、家康と同じくらいの大藩であった輝元が東西拮抗するこの戦さで最後に漁夫の利を得ようと日和見していたための結果であったようでもあります。またその後の国替えでは幕府の意向により、候補地として挙げた山口・三田尻(防府)・萩のうち最も不便な萩に広島から藩政庁を移し築城しました。指月(しづき)城(萩城)であります。(下図の左上出っぱり一帯。なお濃い緑は山、薄い緑は海と河)
まあここであったればこそ結果的に良かったかと存じます。戦災にもあわず歴史的遺構が数多く残っているんですもの、うらやましい限りです。
さて土曜の昼前に東萩駅前のホテルに到着。車を置いて市内巡回バスであるところの“まぁーるバス”を利用しました。上はその路線図で青路線(東回り)赤路線(西回り)がありそれぞれのバス名は松陰先生号・晋作君号であります。観光地を網羅したこのフットワーク、じつにヨカですな。ネーミングもグッドであります。
乗車賃は一回100円。京都も1日乗車カードがありまして随分助かりますので、ついここの500円1日乗車バスカードを買いたくなりますが、必要ありませんです。ダイヤが30分に1本ですし碁盤目の市街地はそう広くなく結構歩いて回れますのでその度払ったほうがお得です。(都合100円くらいのお得ですけど)
それでは早速松陰先生号に乗ってまずは観光客には不案内な反射炉跡から。「萩しーまーと」下車徒歩5分。うらぶれた公園の一角にそれはありました。
すごいですね。高さ11.5メートルの煙突部分だけですが写真のようにまだ原型をとどめております。ほぼ完全な姿で現存しているのは他に伊豆韮山にあるものだけだそう(行ったことないけど)ですが、そちらは大人100円也の見物料など取って観光コースに組み入れてある一方こちらはタダで朽ちるに任せております。どちらも同じく大正年間に指定された国指定の史跡なのですが、地の利の違いでしょうか。ただそれでも高さがありますから鹿児島仙厳園にある反射炉基底部跡よりずっと迫力があり看板に書かれた説明文も分かりやすかったのは旅行者に親切で、観光用に手入れが行き届いたわりに説明が分かりにくかった薩摩藩より長州藩の方が馴染みやすそうな印象を受けたのでした(単純ね)。ちなみに反射炉は鉄鉱石から銑鉄を取り出す溶鉱炉の一種だそうで、石炭や木炭の熱や炎をドーム状の内壁に反射させて鉱石を溶かす構造になっているそうであります。また内部をより高温にするため(鉄内部の炭素をより減らすため、つまり酸化ね)煙突を出来るだけ高くする必要があったそうです。
幕末の嘉永4年(1851年)、反射炉はまず佐賀藩が最初に作りましたが、そもそもは伊豆韮山代官だった江川太郎左衛門英龍が銃砲製造のため建設を志し書物だけから小型の反射炉を作り出すところまで行ったのにも拘らず本格的に作るための資金を幕府から貰えず計画が頓挫していたところ、佐賀藩藩主鍋島閑叟が江川の開明なのを聞きつけ三島で邂逅したのが縁で佐賀藩へ製法の技術伝授と技術者派遣となったことから佐賀藩の快挙となった次第。
何故佐賀藩かと言えば鍋島閑叟の先見の明と佐賀藩の豊かな財政と耐火煉瓦としての有田の磁器があったからこそであります。隣接の福岡藩や久留米藩と大きく違い、明治維新の藩閥薩長土肥の一角として肥前佐賀藩はこの反射炉から作ったアームストロング砲で名を成しましたけれども維新前夜の人物春秋では佐賀藩はいまいち話題に挙がりませんね。閑叟殿様は偉かったけれど偉過ぎて勤王か佐幕かの藩論がはっきりせず志士の声も聞こえてきません。鳥羽伏見の戦い以降にもっぱら大砲と洋式化した藩兵だけで薩長に続いたという感じであります。維新後は江藤新平・大隈重信・副島種臣など輩出しておりますが。
ところでこのアームストロング砲や蒸気船の機械装置を作ったのは久留米出身のカラクリ儀右衛門こと田中久重であります。佐賀に10年ほど奉職したのち久留米に帰りまた10年ほどして明治6年上京。銀座に器械製造所を開きますがこれがのちに“東芝”になりました。なかなか久留米に居ながらにして事を成すには難しかったのでしょうね。
話は戻りますが幕臣でありながら渡邊崋山・高野長英と親交があり尚歯会のメンバーでもあった開明派の江川太郎左衛門英龍は偉かった。
時の老中は水野忠邦でありました。彼は天保の改革の一環としてアヘン戦争などを踏まえ外圧に備えるため軍制改革を図ります。このとき高島秋帆の砲術を幕府の軍制に生かそうと長崎から高島を呼び寄せます。この折反対したのが後に町奉行となり妖怪と呼ばれ蛇蝎の如く嫌われた鳥居耀蔵で、賛成の意見書を書いたのが江川であります。蛮社の獄で江川は随分と危なかったのですがその張本人鳥居耀蔵に関してはすんごく面白いのでまた機会があったらお話ししたいと思いますが、ともかく江川は出府した高島に入門。のち高島流砲術師範として江戸で佐久間象山など門弟100人に教え韮山に帰ってからも代官所(江川屋敷)付設の屋敷内で通称韮山塾と呼ばれた教室を開き、徹底して実用主義の西洋兵学や銃砲学とその製造を門弟達と研究しました。その延長上に反射炉の設営があったのです。ですが結局幕府がOKを出しやっと建設したのが嘉永7年 、ペリー来航の翌年のことでした。この間伊豆代官としてペリーとの対応や折衝、幕府当局との軋轢などでかなり心労が重なったのでしょう、翌年の1月16日55歳で急逝しました。明治維新の13年前でありました。
江川英龍について付け加えれば彼はまた『パン祖』でもあるそうです。秋帆一門にパン職人がいてこれを韮山に呼び寄せパン窯を作らせて乾パンを焼かせたそうな。西洋の軍制を研究するうち軍用携帯食として、また天保の飢饉を経験した上での救荒食料として着目したという経緯だそうで、江川屋敷内には全国パン協議会が江川をパン祖として顕彰する碑が建っているそうであります。
なんだか凄い人物でありますね。幕府の側にも、残念な事に亡くなるのが余りに早すぎた人物がおりました(当然ながら、ね)。
ところで、ここ萩に反射炉が出来たのがその翌年の安政3年(5年説もあり)であります。ただし、初めのほうで書いたようにこちらの説明書きの看板には「反射炉の遺構が現存するのは伊豆韮山と萩だけ」となっておりますが、韮山の反射炉がある“伊豆の国”市(こんな市があったのね)のHPでは「建設当時の反射炉が現存するのはここだけです」とビミョーに唯我独尊のコメントであります。ま、地震による崩落予防に鉄の輪ッカがハスカイに噛ませてあるのはご愛嬌ですか。
でもこの反射炉、最初場所が分からず通りがかった高校生に聞いたのですが地元の彼も知らなかったくらいマイナーな存在なのはやはり問題でありますね。先ほどの看板の後のフレーズには「わが国の産業技術史上たいへん貴重な遺跡」とあるのですが・・・。
ま、とは言へこの一発目は地味なモニュメントだし、これから巡る所はもしかして150年前の姿で残っているものが絶対あるよね~なんせ街中戦災に遭ってないんだからして・・と思いながら再び松陰先生号に乗ったのでありました。
あらま、すみませんね、反射炉だけで終わってしまいました。次回は松陰神社を訪ねます。
亭主敬白