よんでみ亭 -118回

ふるさとのお社(6)

~水天宮⑤幕末編~

恋ひわたる妹(いも)の門べの川の名の千歳の契りかはらずもがな

(真木和泉娘お棹へ平野国臣が送った歌)

今日から6月。今年はヤケに早く桜が咲いた割には寒さが戻り長いこと花見が楽しめて随分得したような気がしておりましたが、晩春から6月に入っても朝晩がずっと爽やかでとてもしのぎ易い今日この頃、みなさんには如何お過ごしでしょうか?

昨年の今頃はタスキ掛けの故田中英明委員長を先頭に、出来上がった大同窓会のチケットを各学年に割り振って購入をお願いし、いよいよ大同窓会当日に向けてカウントダウンが本格的に始まったのを鮮やかに思い出します。

・・・私も含めて誰かにいつか来るものと思ってはいてもあんなに突然だったとは、今さらながら残念であります。

つひに行く道とはかねて聞しかど

昨日今日とは思はざりしを (在原業平)

諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽  (『涅槃経』より)

「世の中のもろもろのことで確かなものは何一つないが、ただただ生き死ばかりはこの世の定め。であるから苦しみに苛まれるのである。生死へのとらわれを失くし去ること。その後に楽があるのである。」と仏教は教えていますが、何を言っとるんだ、そう簡単に言われてもそんな悟りなんて出来るわけがないだろうが!と言いたくもなります。

結局どんなにがんばっても愛別離苦の苦しみからは一生逃れられないでしょう。だけどそれでもなにか救いを求め続けるのですね。

引き続き水天宮編であります。

前回、寺田屋に平野国臣と清河八郎の姿がなかったと書きましたが、まずは清河八郎の話から。

大坂の薩摩屋敷に入った清河でしたが、413日本間精一郎らに誘われて船で遊びに出かけます。むかしは川に船番所というものがあって怪しいものが通ると誰何(すいか)しておりました。そこへ通りかかった清河一行は酒に酔ったか若気の至りか悪ふざけの度を過ごし無礼を仕出かしたようです。

これより先、安政5年井伊直弼の大老就任以降いわゆる安政の大獄や開国による物価騰貴などで世情不安な中、江戸にいて文武兼授の私塾を開いていた清河のもとに続々と国政を憂うる青年が集っておりました。いずれも水戸学の洗礼を受けておりますから翌々年桜田門外の変で水戸浪士らの手により井伊が暗殺されますと一挙に過激に傾いてきます。一方幕府の方も不穏な浪人たちを察知し清河はマークされ始めます。そんな中アメリカ公使館の通訳ヒュースケンが斬殺されました。どうやら清河や門弟の伊牟田尚平らの犯行だというので探りに来た小者を清河、エーイ面倒だとばかり斬ってしまいます。その頃までに幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)も同志に加わっており、彼の勧めもありそのまま江戸を離れ諸国放浪(というか諸国遊説)の旅に出ます。もちろん幕府の捕吏に追われる身の上でした。

結局船番所の件で、あれが手配中の清河では?ということで問題になり大坂薩摩屋敷を追い出されてしまいました。それが413日。寺田屋事件が423日ですので、それでも有志等と連絡さへ密にしておれば当然清河も寺田屋にいたはずなのですが。一説に拠れば一緒に薩摩屋敷に入った田中河内介と大喧嘩したために清河は離脱したとも。なんにしろ才子にありがちな軽薄さを多少感じますな。

さてここからが彼の面白いところであります。

8月ころ彼は江戸に舞い戻ります。内妻が彼の罪に連座し同月獄死していたにも拘わらず、同志の旗本山岡らを通じて幕府に対し将軍上洛に先立ち警固のため浪士隊(=新徴隊、ただしこの名は江戸に戻ってから)設立を建白するのであります。その頃の京は天誅という名の下の暗殺がやたら流行り治安が悪く幕府としても手を焼いていましたので渡りに船、毒をもって毒を制すということでなんとも御都合主義ですが清河の罪を許し入獄していた門弟を釈放の上、2500両を下賜し将軍警護のための浪士隊の結成を許します。当初の人員の予定は50名でありましたが234名もの応募があり幕府を驚かすほどでしたが玉石混交、浪人もいれば郷士もいる、農民で剣術の達人もいれば博徒もいる。清河は「ともかくも京へ行けば何とかなる」といって浪士隊を率い上京しました。(ただし清河が浪人のため代表は別の幕臣旗本=鵜殿鳩翁のち高橋泥舟(山岡鉄舟義兄))ときに文久32月のことでありました。(このころ真木和泉は寺田屋の変の一件で久留米に幽閉されております。)

ここまでは幕府の目論見通りでしたが、さて京に着いた清河は隊員を前に一席ぶちます。いわく「われらは尊皇攘夷の尖兵として一身を挺し報国のまことを尽くすために今日ここにおる。幕府の世話で上京はしたが、たとえ幕府の意向に逆らうようなことがあっても大義を貫くつもりである。」すなわち天皇に攘夷を建白し勅諚(ちょくじょう=天皇のお許し)を頂きこの浪士隊を、攘夷を行ういわば天皇の軍隊とするという大どんでん返しの奇策であります。

この建白がまたまた認められるんですね。清河八郎という人は一介の浪人でありながら幕府・朝廷両方に太い人脈を持ち人に過ぎる才気に恵まれていた上に時流が彼を押し立てていたのですな。幕末はこういう人物のオンパレードでありますが、長生きできた人は数えるほどしかいなかったのもまた事実であります。

清河が攘夷の勅諚を頂いたと知った幕府は仰天します。

一計を案じた幕府は「昨年8月の生麦事件(島津久光帰国時の英国人無礼討ち事件)の後処理に苛立った英国が江戸に軍艦を差し向けるそうである。ついては早急に江戸に戻り事態に備えよ。」と清河他浪士隊を呼び戻そうとしました。

攘夷を掲げる清河は不承不承江戸に戻ろうとしますが、浪士隊の内あくまで将軍警護のため京都残留を望むものが20数人おりました。武州郷士の試衛館一派の近藤勇らと水戸浪人芹沢鴨らであります。彼等は京都守護職松平容保に交渉。京に残り市中警護と不逞浪人(尊攘激派)の取締りを任されます。その名も壬生浪士隊、のちの新撰組でありました。

ここが歴史の皮肉でありますね、天皇の軍隊を作るつもりが勤王の志士を抹殺する集団をこさえてしまったという。2年後池田屋事件が起こり、9名が斬殺され翌日にかけ20数人が捕まり拷問の末斬られております。

尚、このとき池田屋から辛くも脱出した志士の中に元久留米藩士渕上郁太郎がおります。1年前の禁門の変でも真木に従い天王山に行きながら落ち延び、この度のこともあってスパイではないかと疑われ後日同志に斬られております。

なんとまあ殺伐とした時代であったことよ。

318日江戸に戻った浪士隊は待機のまま割り当てられた宿舎に留め置かれます。山岡鉄舟は、幕府が清河に対し粛清を図るやも知れぬからくれぐれも身辺に気をつけよと忠告します。

そして413日。清河は風邪気味なのをおして知人の上之山藩士金子与三郎との約束のため外出。途中高橋泥舟宅に立ち寄ります。そのとき認めた歌が辞世となりました。

(さきが)けてまた魁けん死出の山

迷ひはせまじ皇国(すめらぎ)の道

あまりに死を意識した歌なので高橋は不吉に思い再三外出を切り上げて家に戻るように言いましたが、約束であるからと出かけて行きました。上之山藩邸での金子との会合の後したたか酒に酔った清河が編み笠を被り新堀川沿いをぶらぶら歩いていくと「これは、清河先生ではありませんか?」ふと見れば佐々木只三郎と速見又四郎でありました。ともに浪士隊として上京した顔見知りの旗本であります。二人は被り物を脱いで丁寧に会釈します。清河がそれに応えようと編み笠を取ろうとしたとき背後から刃一閃、清河の頭が割れて鮮血が飛び散りました。佐々木の同輩窪田千太郎でありました。ドウと倒れたところを佐々木・速見が斬りつけ仕留めたことを確かめると足早に立ち去りました。享年34歳。なお老中の指図により金子と佐々木らが示し合わせて暗殺したという説もあります。

4年後の慶応3年、佐々木は京の近江屋での坂本竜馬・中岡慎太郎暗殺も指揮したとされます。これらの功により禄は1000石に加増され京都見廻組与頭となりますが、翌年の鳥羽伏見の戦いで負傷の後あっけなく亡くなりました。35歳でありました。

古来、サムライの心得とはどんな手を使っても勝つというものでありましたが、江戸時代に入り儒学と武士道が結びつくようになると卑怯な振る舞いが嫌われる風潮となりました。でも殺伐な幕末には天誅だの暗殺だの、寝込みを襲ったり後ろから斬りつけたりと卑怯もヘッタクレもなくなりましたね。が、やはり人殺しの末路は総じて悪かったようです。まあ、実際手を下した者に限ってですが。黒幕が誰だったか、どんな死に様だったかは結局は歴史の闇の中であります。

ということで清河八郎編は終わりです。あまり水天宮とは関係が薄かったですね。ですが次回は平野国臣編でありましてグッと身近に感じられるべく鋭意努力したいと存じますので請う、御期待。

ヤレヤレ、疲れましたワ。           亭主敬白

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