ふるさとのお社(4)~水天宮③~
ふるさとのお社(4)
~水天宮③~
とうとう桜の花も4日の雨で散り初めてしまいましたが、その後みなさんいかがお過ごしですか?今年もまた往く春を惜しみつつ花見など楽しまれたでしょうか?
私は相変わらず酒を携え小頭町公園で2度、石橋文化センターで1度夜桜見物とシャレてみましたが、お陰さまで願った如く今年は長く花がもってくれて結構でありました。花佳し、友佳し、酒も佳し、いやはや例えれば人生の70分の1の楽しみの宴でありました。(まあ、もって70歳の寿命としてね)
桜を愛でる心は、ホルモン的に言って、恋をする心と一緒なのだそうです。脳から分泌されるドーパミンのなせる業だそうですが、そう言ってしまえば無粋な感じではありますけど、日本人の“色好み”は遺伝子として上古より連綿と受け継がれているのですね。
さて前回の続きであります。
面会を断った和泉守に平野国臣が送った歌は、
世の中にひき乱されて四つの緒のひとをも今はしらべあはなくに
いや~、昔の人は偉かったんですなァ。
和泉守が琵琶をよくすることを知っていた彼は即興でこう歌ったのでありました。因みに緒は琵琶や琴などの弦のことです。
「いまや時局危急の時なのにあなたは藩の命令を恐れて誰とも会おうとしないのですか。(当局を慮って心乱れ琵琶の4本の糸の1本さえも調べが合わないのでしょうか・・・意気地がないじゃありませんか)」
ひと(一)緒も=人をも、あは(合は)なくに=会はなくに、という具合に上手にかけてあります。国臣の笛が達者なのもあってか、旨いもんですね。
こうまで言われた和泉守は会わないわけにはいかず、しかしそのあとすぐ意気投合した事はここに敢えて書くまでもありませんがその日の和泉守の日記には国臣をして「恋闕(れんけつ)第一等の人」(純粋熱烈第一等の勤王の士)と記されております。その夜は門弟の家に泊めますが国臣は翌日またやって来て大いに歓談し、和泉守もよほど国臣が気に入ったのか自分の寄寓先の弟の実家である大鳥居家(弟の養子先である水田水天宮の宮司家)に連れて行き甥達に国臣の話を聞かせたということです。時に和泉守48歳、国臣33歳。この後も二人の交際は一層深まり、翌年には和泉守の妹お棹と国臣が恋に落ちることになります。・・・とはいうもののこの二人の英傑に残された歳月はわずか4年でありました。
さてその頃、中央情勢はというと井伊大老暗殺の後幕閣の方針は朝廷との協調路線に転換し孝明天皇の妹和宮を将軍家茂に降嫁させるといういわゆる公武合体論が主流になっておりました。なかなか朝廷のほうがウンと言わなかったのですが1860年(万延1年)ようやく話がまとまり翌々1862年の2月御婚儀と決定しました。ところが尊攘派は公武合体には反対です。和宮が幕府の人質なるとしか考えておりません。そこで起きたのが坂下門外の変であります。
厳重警固で登城中の老中安藤信正が水戸浪士4人を含む6人に襲われ軽傷を負った事件でありました。華々しく公武合体を謳う幕府の腹積もりが水泡に帰すどころか幕府の威信の低下は誰の目にも明らかになって参りました。
一方、1861年九州であります。
蟄居中の和泉守のもとにまた一人の男が尋ねて参りました。
出羽庄内出身清河八郎。策士であります。庄内藩の富裕な郷士の家に生まれ若くして江戸に出て儒学・国学・剣術を修め諸国を巡り尊攘志士らと交わっておりましたが、京都にて公卿中山大納言家諸大夫の田中河内介と語らい、九州の尊攘志士を糾合し上京させるべく九州にやって来たのでありました。これは青蓮院宮(後の中川宮、明治8年に久邇宮)を征夷大将軍に押し立てて攘夷を決行するという遠大な計画であります。
さて和泉守を尋ねた八郎の感想が残っております。曰く「そのてい五十位の総髪、人物至ってよろしく、一見して九州第一品格あらわる。すこぶる威容あり。」また和泉守が八郎の計画に同意し、この切迫した情勢である以上一族ことごとく挺身すると誓ったので、その赤心の精なるに覚えず感涙を催したとも書き残しております。事実3年後の禁門の変では一族引き連れて参戦いたしました。
また八郎は肥後に潜伏中の国臣に会います。この時の会談ののち国臣が書き上げたのが薩摩候への建白書の体裁をとる堂々7千余語の『攘夷英断禄』であります。
すなわち「日本今日の急務は外難を克服し国の独立を確保することであるが、そのためには挙国一致体勢をとることが絶対寛容である。挙国一致は薩摩のような富強な大藩が奮起すればわけなく出来るのである。兵を率いて東上し天下に義民を募り青蓮院宮を将軍とし、鳳輦(ほうれん=天皇の乗る車)を奉じて箱根に行在所を置き幕府の降を促し、幕府が罪を認めるなら寛恕として諸侯となし、然らずんばこれを伐つ。かくて日本は天皇を中心とするもっとも強固なる結束の国となるのである。」という内容でありますが、これはまったくもって前回ご紹介した和泉守の『大夢記』を下敷きにしているのは疑うべくもありませんね。
ともあれ国臣が和泉守や八郎にこの建白書を見せますと二人ともこれを薩摩の国父(島津久光)に献じろと言います。で、国臣は薩摩に3度目の潜入を図ります。そのときに歌ったのが、
わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山
平野国臣は詩人でありました。
というところで今回は終わりであります。
結局この建白書は久光には届けられませんでした。がしかし、この頃から陸続と九州の志士たちは京を目指します。さらに尊攘派が台頭する長州も藩を挙げて京に向おうとします。そしてついに1862年3月久光が藩兵1000人を率いて上洛のために薩摩を出発しますが・・・。
こののちの真木和泉守、平野国臣、清河八郎の運命やいかに。
次回の水天宮④で――。(引っぱり過ぎかしら)
亭主敬白