「みのるの古文書談義」ふるさとのお社ー3
ふるさとのお社(3)
~水天宮②~
“梅は咲いたかァ、桜はまだかいな~ァ・・”
今年の桜の開花日が発表されました。3月の17日だそうで例年より9日も早いそうです。またしても地球温暖化の影響か?なぞとつい地球の未来にナイーヴになりそうですがともかくも私早く咲いてくれるのに文句はありません。でも長く咲いててくれて欲しいですね。お花見は何度でも結構であります。満開の桜の下、盃にヒラヒラと散る花びらを浮かべ友人達とワイワイと酌み交わす酒ほど旨いものはありませんのでこういう慶事が幾度あってもいいなあと願っております今日この頃、みなさんお元気でしょうか?
(毎年今頃はワンパターンなこんな出だしで恐縮ですが・・)
では前回の続きを。
春風駘蕩たる水天宮の近影であります。
境内に立つ真木和泉の銅像。
幕末、九州勤王党の巨魁と仰がれた真木和泉守保臣は文化十年(1813年)ここ水天宮の第21代宮司真木旋臣(としおみ)長男として生を受けました。幼名湊(みなと)。当時旋臣は久留米藩の馬廻格(うままわりかく)で知行150石でしたが湊11歳のとき他界。すぐに家を継ぎ保臣と改名。20歳で神官として朝廷より従五位下和泉守に叙せられました。よって「従五位下和泉守平朝臣保臣(じゅごいのげいずみのかみたいらのあそんやすおみ)」と正式には名乗ります。(社伝に拠れば真木氏は平知盛の孫の平右忠の後裔となっております。因みに徳川家康は源氏。織田信長は平氏という)
幼時に絵本楠公記を愛読し早くも楠木正成の勤王を敬慕。長じて我らが母校の前身である藩校明善堂で英才の誉れ高く国学・儒学・漢詩文・和歌・武芸の研鑽に励み琴・琵琶にも堪能であったそうな。32歳で当時勤王藩として天下に名だたる水戸藩に遊学。帰国後久留米藩主に藩政についての意見を進言し藩政改革をのり出しますが嘉永5年(1852年)藩内保守派の抵抗に会い只今の筑後市水田に蟄居を命じられました。時に40歳。
すでにこれに先立つ7年前藩主宛の建白書に、「諸大名の封土が幕府より与えられたごとき様相を呈し、将軍大名間に君臣関係があるように見えるが真実は、もとより尺土一民も王朝の有にこれある儀は疑いもなく従って将軍大名間に真の君臣関係は存在せず、御大名方はなおさら王朝に心尽くすべき道理である」と主張しております。水戸学の洗礼を受けたにせよ1846年時点で藩主に向ってこうも先鋭的にまた先見性があったとしても幕府の非正当性を建白するのでありますから藩当局から要注意人物と見られていたのでしょう。
上は水田天満宮にあった和泉守が蟄居した庵である山梔窩(サンシカ=くちなしのや=口なしに掛け謹慎を表したものか)を復元したもの。先の銅像の横にあります。6畳一間くらいの大きさでしょうか。小説家の海音寺潮五郎が昭和19年ころ水田村を尋ねたところこの庵はまだ現存していたそうです。
ところで蟄居謹慎とあれば他人との交際や通信は許されておりませんでしたが、和泉守の憂国の情抑え難くまたこの水田天満宮の宮司は和泉守の実弟でもあったのでかなり自由が利いたらしく兄弟縁者や以前より薫陶を受けた門弟などから諸国の情報は彼の耳へ入って参ります。またここで近隣の青少年に教育を行いこの庵は萩の松下村塾然たる体を呈しました。(もっとも吉田松陰が松下村塾を主催したのはそれより4年後でありますが)しかしながら和泉守がここに蟄居することじつに10年余の永きに渡ります。
その間、泰平であった日本は激動の時代を迎えておりました。
嘉永6年(1853年)浦賀に黒船現る。翌7年(安政1年)日米和親条約締結。安政5年日米通商条約締結・安政の大獄。安政7年(万延1年)桜田門外の変。
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蟄居して6年目46歳のとき、幕府により日米通商条約が朝廷の勅許の出ないまま締結された(違勅)ことに憤慨して書き上げたのが『大夢記』であります。
概略「外交政策を誤った幕府を問責するために天皇は幕府追及の軍を起こすことを図られ、有志大名に密使を派遣し京都参集後御親征による討幕の勅諚を下さる。大名の軍編成定まれるや伊勢神宮へ報告後熱田神宮で草薙の剣を奉じ東海道を進軍。箱根権現を行在所にして江戸の大老・老中等重役を呼び寄せ責任を問い切腹させる。別の一軍は江戸へ入り人民を安寧させたうえで将軍を江戸城から退散させ駿府へ押し込み一大名へと落とす。江戸城には親王を入れ改革が成ったことを万民に詔勅さる。その後東北地方を巡幸し帰投して大阪で輦(れん)を止められここに新政府が打ち立てられたのであった。」という書物でありますが後日の大和行幸の企てを髣髴とさせる内容であります。
久留米にその人あり――蟄居中ではありますが和泉守の高名は九州内外の草莽の志士たちに知れ渡っておりました。そんな折、宮部鼎蔵等とならんで肥後勤王党の有力者の一人松村大成が大いにその人物像を推奨する和泉守に会わんと平野国臣が水田を訪れます。
平野国臣、筑前福岡藩浪人で福岡藩勤王家の魁。漢学・国学に親しみ古の制を尊ぶ尚古主義から月代を剃らず総髪にし笛に堪能で短歌も嗜む風雅人。
彼は梅田雲浜や西郷隆盛と出会った頃より活発に尊攘活動を初め、薩摩の北条右門から安政の大獄で手配中の勤王僧月照を薩摩に送り届けるよう頼まれ苦難の末薩摩に入ったものの藩当局から月照を引き渡すよう迫られた西郷が進退窮まり月照とともに錦江湾で身投げしてしまいます。その折同道していた平野は二人を助けますが西郷は蘇生するも月照は水死。薩摩藩は西郷も溺死したことにして奄美大島に蟄居させます。平野は事件後薩摩を追放され筑前に戻りますがしばらくのち、直接計画に関与はしてはいませんでしたが井伊大老の暗殺を予言しその後の藩の対策を建白した平野に対し幕府の追及を恐れた福岡藩は捕縛令を出します。逃走した平野が肥後玉名に潜伏中のことでありました。
さて和泉守は謹慎中のこととて平野に会おうとはしません。そこで平野は一首歌を詠んで和泉守に差し出しました。・・・
これより二人は肝胆相照らし時局に関して大いに語り合うのですが、この後の顛末はまた次回のお楽しみということで――。
(うう、酒毒で脳味噌が半減しておるのにこがん話を膨らませたものだから、この先どげんして落ちをつけたらいいもんか・・乞う!御期待。)
亭主敬白