よんでみ亭ー135回ー


ふるさとのお社(23)

~日吉神社①~

「吾をば倭(やまと)の青垣の東の山の上に拜(いつ)き奉れ」

みなさんその後いかがお過ごしでしょうか?

前回より3ヶ月余りが経ち随分御無沙汰いたしておりましたが久しぶりのこのコラム遅まきながら再びお送りしたいと思います。

なんてったって311日を境にして人生スロウィング・スピアーになっちゃってまして刹那的思考しかできなくなりました。さあさあ飲めるうちに飲んで遊べるうちに遊ぼうと・・。もとよりその傾向があったのは近しい諸君は御存じだったでしょうが底が抜けたと申しましょうか、これでもかと花見も3回やったのでありました。ちょ~楽しかったわ・・。

ああ、でもあれから早3ヶ月。花はとうに散って季節は巡り梅雨入りしましたが相変わらず原発は予断を許さず帰りたくとも帰れない避難者は未だ9万人余。だのに政治はあの通りの体たらくでわれらが選んでしまった政治家連の無能ぶりに腹の立つのを通り過ぎて悲しくなって参ります。古来日本人は政治的人種じゃないのかもね。


世界に冠たるわが日本は一体どうなって行くのでありましょうか。東洋の老大国となって朽ち果ててしまうのでしょうか。無法に高い電気代や倍増する消費税などなど暮らしにくい生活がすぐそこまで迫ってきております。


それにつけてもお隣韓国の上げ潮ムードはいかばかりでありましょうか。大統領が企業人だったらしくリーダーシップを発揮してトップセールス連発、
LGやサムソンや現代(ヒュンダイ)といった企業はイケイケ状態であります。少女時代もKARAもチョ~素敵だし。・・やっぱおじさんね~。

さてこれより前回の続きであります。

とはいってもいきなり地味な写真から。

JR久留米駅から母校明善へ向かう道すがら余り特徴のない公園があるのをみなさん覚えていらっしゃいますか?


公園と言うよりは植栽のなかの通り道という感じですがその公園の名前が「京町第
2公園」ってことこの度初めて知った次第。そしてその一角にあるのが城南町の日吉神社(通称では駅前日吉神社だそうな)であります。町名が入り組んで変なんですが。

祭神は大山咋神、大物主神、有馬頼元公であります。

ちなみに久留米には日吉系の神社は日吉町の町名の起源となった久留米総社の日吉神社を筆頭に山王社も含めると10社ほどあるようです。

山王とは近江国坂本にある日吉大社の別名であり、元々日吉(ひえ)大社は比叡山の神である大山咋(おおやまくい)神を祀っておりましたが、天智天皇の7年近江京守護のため三輪山の大物主神を勧進し共に祀るようになったとモノノ本に書いてあります。


が、以下御紹介するように神様の系統と動向がハッキリ致しませんで、少々話が込み入って参りますが何とかお付き合い下さいね。ところで諏訪神社の方にはまた戻りますのでそっちもよろしくね。

さて、前回はスサノヲの試練に見事合格し晴れて娘婿と認められたオオナムヂが大國主(地上の王)という名前を貰い八十神(多くの豪族)を倒して古代出雲の支配者となったところまででしたね。

古事記に拠ればそれよりオオナムヂは文字通り武ばった八千矛(やちほこ)神と名前を変え、高志(こし=越)の国の沼河(ぬなかわ)姫のところへ求婚に向います。歌のやり取りがあり次の晩に無事結ばれたというのですので越の国もオオナムヂの支配下に入ったと考えられましょうか。


そしてそのことを知ったスサノヲの娘スセリ姫の嫉妬の場面があり、それに対するオオナムヂの懐柔が上手くいき二人は再び愛を確かめ合ったのでした。


ここのところはリズミカルな歌の応酬が続き“声を出して読むべき日本語”であります。長いので省略しますが是非お試しくださいね。元来古事記そのものが口承文学ではなかったかなと。


ともあれスセリ姫を宥めたオオナムヂはこれより大國主(オオクニヌシ)神と名乗り出雲から倭
(ヤマト)の国へ向かいます。

が、次節ではいきなり胸形(宗像)沖津宮のタキリ(多紀理)姫を娶る話から始まって、数々の姫君を娶っては生まれた御子()の名がズラッと紹介されております。日本書紀の一書にはこの時に生まれた御子神あわせて181柱。ことほど左様にオオクニヌシは艶福の神様と呼ばれるほど沢山の子孫を残したのですが、出雲の鉄を武器に各地を転戦、征服して行ったことの謂いであり出雲族の血を広げて行ったことの謂いでありましょうか。


さてそこで話は出雲に戻りまして(古事記の記述通りなのよ)いよいよ國造りのエピソードであります。

オオクニヌシが美保の岬に居りますと、波間にガガイモの皮の船に乗り蛾の皮で作った服を着て寄り来る神がありました。

ココニソノナヲトワセドコタエズ。


従う諸神に聞いても知らないと言う。

ここにヒキガエルの言うことにャ、

「崩彦(クエビコ=案山子)なら必ず知っているでしょう。」

崩彦を呼んで問うに、

「こは神産巣日(カミムスヒ)神の御子、少名毘古那(スクナビコナ=少彦名)神ぞ。」


よってカミムスヒに申し上げたところ、


「こは実に我が子ぞ。子の中に、我が手俣より漏しき子ぞ。よって汝
(いまし=なんじ)葦原式色許男(アシワラノシコヲ)と兄弟(あにおと)となりて、その國を作り堅めよ。」

こうしてオオナムヂ(大穴牟遅)とスクナヒコナと相並んでこの國を作り堅めたのでした。

さて後はそのスクナヒコナは常世(とこよ)國に行っておしまいになったのですが、ここにオオクニヌシ神が愁いておっしゃるには、


「吾ひとりして如何にかよくこの國を得作らむ。いづれの神と吾と、よくこの國を相作らむや。」


とまあ、古事記ではスクナヒコナ神は出番がこれだけですが『伊予風土記』逸文では、スクナヒコナが大穴持
(オオナムヂ)の病を治そうと大分の温泉を持ってきて湯浴みさせ回復させた、これが道後温泉の源であるとありまして、また各地の伝説にもオオクニヌシ・スクナヒコナとも温泉神として崇められているとか。またスクナヒコナは酒の神とも。一寸法師のモデルとも謂われています。

また古事記にありがちな二者セットの関係は“兄弟”と並んで國主&彦名という名前の対照性も表しておりますが、結局國作りが終わらないうちにスクナヒコナは消えてしまったのでした。


で、嘆くオオクニヌシの前に海を照らして寄り来る神ありき。その神のおっしゃるには、


「よくわたしを祀ればわたしは共に相作り成さむ。もし然らずんば國成り難いであろう。」

そこで大國主神がお聞きなるに、

「然らば治め奉る状(さま)はいかにぞ。」

「吾をば倭の青垣の東の山の上に拜き奉れ。」

こは御諸(みもろ=三輪)山の上に坐()す神なり。

すなわち大神(オオミワ)神社の祭神となる大物主神でありました。

んん~・・解説すれば大物主神は荒御霊(あらみたま)である大國主神の和御霊(にぎみたま)または幸御霊(さきみたま)奇御霊(くしみたま)であるそうな。つまり大物主と大國主は同一神であり、御存じの対照パターンでこれは一つの神格内の陰と陽、表と裏みたいなセットという関係というのですが、どうもよく分からない。いっそのこと別神だとすればスッキリ!するのであります。


たとえば、前半の大國主と大物主はニギハヤヒのことであり彼は出雲の大王スサノヲの息子であって、後半の大國主はニギハヤヒの息子のことであった、とか。次回國譲りの段を詳しく見て行くとそっちの方が正解か、と思う今日この頃でありました。


ということで次回は大物主と大國主の共同で作り上げた豊葦原の中つ國がどのようにして天孫族に譲られていくかを見て参ります。


ああそれにしても強力なリーダーシップが発揮できないのはこの国にとって幸か不幸か?

すくなくとも今は不幸ですね。

亭主敬白

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