無題

ページ 8                                   野瀬泰申   

 十八才の春、東京行きの夜行寝台を待っていた。まだブルートレインという

呼び名はなかったが、飛行機に乗るということが遠い出来事であった時代、

夜っぴて首都にひた走る列車はやはり、過去を置き去りにして旅立つことへの

身震いのようなものを身内にかきたてる。すでに古びてしまっていた久留米駅のホームは、確か薄暮の中であった。

 初めて着た背広とネクタイ。コートで隠していたのだが、見送りの友人が、

それを見つけて「ネクタイ」と、小さな声で言った。学生になること、それも

東京の学生として一人で暮らすことにどんな希望と恐れを抱いていたか、もう

憶えていない。記憶に沈んでいるのは、その夜、列車の中で「松竹梅」の二合瓶を一本空け、車内販売で買った「ロングピース」をふかして激しく咳込んだことだけである。

 

 二十二年後の三月、転勤で福岡に住むことになった。島田に電話を掛け再会した。「TAKE6」が「TAKE7」になる。と言った島田の言葉の意味は、会合に出てようやくわかった。

 歳月が流れていた。私は新聞記者になって大阪や金沢、東京を転々とし、結婚し、離別し、再婚し、子供をもうけ、組織の歯車がどこかで気まぐれな動きをする度に、内出血ていどの痛みを感じることがなかったわけではない。

 だが、面々もそれぞれの哀楽を経ているだろうに月に一度の会合に出れば、

場は妙に若やいで、私は夜ごと十八歳の久留米駅に引き戻されるのだった。

 

 木村清吾先生を囲んだ折り、そして平成六年一月の例会では歌を歌った。

岸田の自己流だが突き抜けるテノール、江口の達者なのど使い、福井のうまさ、成冨の静かな笑い、矢野の陽気さ、島田は歌に歌わされるように体が揺れる。

そして私はいつも愉快だった。

 私だけが郷里に居つかず、デラシネであること。そのことに特段の感慨はないが、両親の衰えが覆うべくもなくなり、兄弟に血のつながり以外の紐帯が見つからなくなるにつれて、人生の後半に拡がる陰がぼんやりと見えて来る。

 三年だけの福岡暮らしは終わった。再び東京である。種を明かそう。TAKE7の多くが、七十三になった父と共に久留米駅で見送ってくれていた。

あの時はたった独りだったが、今度は妻と三人の子を連れて飛行機で行く。

 見送りは、いらない。