その夜は、島田と矢野と私の三人で、岸田と成冨が居なかった。
高校卒業後も、何とはなしに集まり、酒を喰らい、話し込み、歌い叫ぶメンバーが
何とはなしに5人に固まりかけていた頃だ。
  「いっそ、幹事持ち回りで定例会にしようや」
  「そんなら名前でも付けとこうか」
  「そうやな」    「・・・・・・・」

「5人やけん、テイクファイブっつーのはどうかね?」と私。
「それでよか、構わん!」と酔った勢いに面倒臭さが加わって言ったのは島田。
「おいおい、他の二人に訊かんでいいとや?」は、優しい矢野。
「いま、3人おる。多数決でもこれで決まり。よかよか」
・・とまあこんな具合で何とはなしに「TAKE5」が生まれた。その後2〜3年のうちに福井が加わり「TAKE6」、更に野瀬が転勤で福岡に帰ってきて「TAKE 7」となった。

 7人が揃った夜、野瀬が私に言ったのが「日経新聞の文化欄に寄稿しないか?」
という事だった。自分が西部本社のデスクで、今アマチュアの視点での記事が要る。それで軽音楽のジャンルで適当に書け。」というのだ。
ほろ酔いの私は軽くうなずいたらしい。アメリカンポップスが響く中で・・
 

この話を聞いた場所が、私が生まれて初めて書いて新聞の活字となった店、「ヴァケイション」であり、憧れの「スージィ」こと入江ゆみこのステージの真っ最中だった。
時に1991年(平成3年)の春。

以来、1993年の冬まで15回掲載された文の中で、特に想い入れの深いものと、TAKE7の男たちの文章をミックスして文集にでもしてみないかと、島田が言い出し、その決定的な引き金になったのが7番目の男との別れ。
私に、たまには誉め言葉で動かし時々修正しながら書かせ続けた野瀬の、東京への転勤だった。
 最後に来たものは、最初に去って行った。追いようもないが、TAKE7の7番目は
永久欠番になるだろう。          江口義幸
 







                                  

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1994年12月 小冊子発行
TAKE SEVEN
My Old Friends